人生にワクワクすること

先日子供の学校で運動会が開催され、お弁当を持って見物に行ってきました。
 
天気が良くて(むしろ晴れ渡り過ぎて暑いくらい!)、最高の運動会日和。
 
去年までは保育所だったので、運動会に参加しても午前中で終了し帰宅していたので、運動会のためにお弁当を作るのは初めてのことです。
子供がお弁当喜んで食べてくれるかな、とワクワクと想像を巡らせながらお弁当を作り、食後のフルーツも用意して、お弁当が悪くならないように保冷バッグに入れて飲み物もたくさん用意して…と、自分的には準備万全と思って小学校へ。
 
私は保冷バッグ1つ、紙袋1つで向かったのですが、着いてみると完全に準備不足の類に入るという事が判明しました( ゚Д゚)!
 
皆さんレジャーシートを持ってきているし、
(地域ごとのテントとブルーシート+ゴザが用意されているので、
各自でレジャーシートを持ってくる必要が無いと思ってました。
ゴザが経年変化でボロボロ、上に座るとモロモロと崩れて、服にめちゃくちゃ繊維が付着する。)
 
大きなクーラーボックスをキャリーに載せて引いてきているし
(近くの駐車場はいっぱいで、遠くの駐車場からはるばる歩いてこないといけないので、キャリーがあると便利)
 
アウトドア用の折り畳みチェアはもちろん、
(ずっと地面に座っているとお尻が痛い)

ミニテントまで持参で、木陰の涼しい場所に陣取っています。
(地域のテント下に座ると、太陽の傾きによって日陰部分が少なくなって、運動場の照り返しもあって暑い!!)
 
皆さんの完璧な準備に感心し、折り畳みイス、クーラーボックス、
レジャーシートを買う事を心に決めました…(;^ω^)
 
大家族のおうちはお弁当作りが大変だろうなと思っていたら、
皆でそうめんを食べているご家族も発見。
プラスチックカップに出汁を入れて食べてました。
ゆでるだけでいいから簡単だなぁ…斬新なアイデアです。
 

 
さてさて開会式が始まって、全校生徒がぞくぞくと入場してきます。
うちの子はあいにく遠い場所に居て、座っている場所からほとんど見えなかったのですが、
「一年生で入学したてで、学校に慣れるのに精いっぱいの時期に、頑張って何回も練習したんだろうなぁ。
と思うと感慨深く、特に何でもない光景なのに涙ぐんでしまいました。
 
自分の子供が出ていない競技でも、誰かの一生懸命な姿を見られたのがとても嬉しく感じられます。
 
皆それぞれの大変さを抱えているはずなのに、(例えば走るのが苦手とか、体が弱くて体力が心配とか、運動が嫌いとか、人前に出るのが恥ずかしいとか、団体行動が苦手とか、いろんな子がいるはずです。)そんな中に、純粋に運動が大好きな子も混じって、
学校全体で一つのイベントを成し遂げようとしている姿に感動したのだと思います。
 
私はPTA役員もしているので、午後からはPTA主催競技のお手伝いもありました。
 
生徒さんと違って大人は運動会の練習なんてしていません。ぶっつけ本番です。
なので、どうしても慣れてないグダグダ感が出ちゃってました(;^_^A
でもそれも良しです。一生懸命やった結果グダグダなら、それもOKだと思いました。
 
運動会終了後の片付けまで手伝って、感慨深い一日の終了となりました。
毎日練習して、用意して、大勢の父兄の方を呼ぶ一大イベントを運営してくださった先生方はさぞかし大変だったことと思います。
 

 
ここまで読むと、「運動会楽しくて良かったね。」という何でもない投稿ですよね。ところが!去年までの私と比べると、この反応はもう信じられないくらいの大進歩を遂げての「楽しかった」なのです。
  
実は私、去年までは学校のイベント事が大っ嫌いだったんです。
ここから面倒くさがり屋の駄々が始まりますので、読みたくない方は次の画像部分まで飛ばしてくださいね。

例えば保育参観があれば、
「毎日子供は家に帰ってきてるんだから、何でわざわざ仕事を休んで保育所に様子を見に行かないといけないの?仕事があるから預けてるんだから、勝手に観ててくれたらそれで良いのに。」
 
運動会があれば
「うわー、面倒くさ!!なんで休みの日の自由な時間をつぶして保育所の行事に参加しないといけないの?」
 
夏に夕涼み会があれば
「行きたくない。他のお母さん方がいっぱいいて何話したら良いのか分からない。子供の盆踊りにも先生の出し物にも興味ない。」
 
地域のお祭りのパレードに参加するからと言われれば
「わざわざ混んでる場所に行くのは嫌だから、(自分の子が出てるのにも関わらず)パレードは見ないで指定されたお迎えの時間に迎えに行けば良っか。」
 
遠足があると言われれば「お弁当作り、面倒くさ!」
親子遠足があるから来てくださいと言われれば
「絶対行きたくない!勝手に行ってきてくれよ~”(-“”-)”」
 

 
もう何もかも、全部が嫌でした。
イベントには自分のやりたいことの邪魔をされているとしか思えませんでした。
 
その私がこんなに運動会を楽しめたのは、宇宙の仕組みを理解し、被害者意識を手放せたからです。
 
私たちはちゃんと目的があって生まれてきていて、すべての経験には意味があることを理解したからです。
 
このブログを読んでくださっている人の中に、「生きるのが面倒くさい」「他人に邪魔されたくない」と思っている、過去の私のような生き方をしている方がもしいましたら。
全ての出来事にワクワクして、人生を楽しむことができる観念があるとしたら、それを知ってみるのも良いかもしれないと思いませんか。
 
生きるのが楽しくなる観念を自分の選択で選べるとしたら、そしてその結果、本当に人生が楽しくなったら?
 
私の周りで起きる出来事は変わっていません。
私のこれまで生きてきた経験も変わっていません。
でも私は観念を、考え方を変えるだけでこんなにも楽しく過ごせるようになりました。
 
ただただ生活に追われて過ごしてしまっている悩み多き方々が、目標を持って前向きに、そして楽しく生きられるように助けることができれば、私にとってこれ以上の幸せはありません。
 

 

ちょっと視点を変えるだけで感じられる幸福感を、
是非たくさんの方々にも感じてもらいたいと思います。
 
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観念を自分で選び取る

私は「人生は怖いことに満ち溢れている」と
思っていたことに気が付きました。
 

 
他人は、私から時間や労働力や気力を奪っていく存在。競争する相手。

まるでブランドの限定商品の奪い合いのように、
他の人が何かを手に入れれば私の取り分が減るのだと思っていました。

 
美人に生まれなかった私は不運。
あの時、怒られた自分は被害者。
あの時、自由を制限された自分は被害者。
大学院に行かせてもらえなかった自分は被害者。
〇〇を押し付けられた、〇〇をやらされた、
××された、△△された、された、された…

 
私の被害者意識は、他人の中の愛を信じられない私を作りました。
人を恐れ、怒られれば委縮して、心を閉ざし続けてきました。
他人に迷惑をかけて、口先で謝っても本当には反省してなくて、
性悪説を信じていた私。
 
そして、自分の人生や、
私たちが生きているこの地球も信じていませんでした。

自分は偶然生まれてしまって、暮らしている環境は
いつでも危険に満ち溢れていて、
いつ自然災害や事故や病気で死ぬかもしれない。
 
今 命があるのは、今 毎日ご飯にありつけているのは偶然ラッキーが
続いただけのことで、かろうじて命を長らえているだけだと。

 

 
年老いて命の炎が尽きるその時まで、
少しでも嫌な出来事に出会わないように、
嫌な人に出会わないように、
不運が起きないように願って生き続けるのだと。

だけど今、スピリチュアルに出会って、12ステップセッションで
自分の人生を分析し、その考え方が全く変わりました。


被害者意識を認識して手放しました。
完璧ではない自分を許し、受け入れました。
他人への恐れを手放し、過去の嫌な思い出を手放しました。
 

恨みがましく嫌っていたあの人もこの人も、私の学びのために
「嫌な人」の役割を演じてくれたソウルメイトなのだと感じました。
悪事を働いた人を自分が寛大になって許してあげるのではなく、自分のために、
自分の心を軽くするために許しが必要なのだと理解しました。
重い感情を、自分のために手放しました。
いえ、「自分のために」とか考えて無理やり自分を納得させる必要もなく、
人生の仕組みを理解するだけで、自然に「ゆるし」が起きたのです。
 

嫌な出来事を別の視点から見ることを学びました。
自分の人生に起きる出来事に何一つ間違っているものは無く、
意味の無いことなど無いことを確信しました。
 

起きた出来事の意味は、いつでも自分のとらえ方1つで、
ネガティブにもポジティブにも捉えられることを知りました。
いつでも自分が主体となって、観念を選択できるのです。

 
宇宙、神様、創造主。呼び方は何でも構いません。
創造主が私たち人類すべての人々に万全であるように、
環境も人生も周到に準備してくれているのを知りました。
そしてその周到な人生設計には、自分も関わって
生まれることを決めてきたのだと、信じています。

 
他人が私から何かを奪うことは無く、
私も他人の何かを奪ってしまう事はありません。
全ては完璧なのです。

 

 

自分の中の論理的な思考が不安を吐き出して私を現実に引き戻そうとします。
 

「宇宙の仕組みなんて、スピリチュアルなんて、科学的根拠が無いんじゃない?」
そんなことはどっちでも構いません。
 
「そんな夢物語みたいなことを信じるなんてばかばかしいと
誰かに批判されるかもしれないよ?」

そういう意見もあると受け入れた上で、気にしない心構えを
持つことができるようになりました。

 
例えば、雪男やUFOやツチノコが本当にいると信じている方が、
人生ちょっと楽しくなりますよね。
そんな、人生が楽しくなる発見をしたような感じ。
しかもUFOよりも、
もっともっと人生に確信をもって生きていけるような大事な信念を。

 
自分の人生歩んでいくに際し、自分が信じたいことを信じて、
自分が幸せになれる考え方を選んで生きていくのに、
なぜ理性的な思考や他人からの批判を気にする必要があるのでしょうか?
私は他人の意見に振り回される
人生ではなく、自分の人生を生きたいのです。
 

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他人が怖い

私は小さい時から人と仲良くなるのが苦手でした。
 
小学校では高学年になるまで仲の良い友達が居なくて、
何なら女子の輪にも入れなくて、女子の中でただ1人、
絵を描くのが好きな男子と教室で漫画を描いていたのを覚えています。
 
クラス替えの度、新しい学校に入学する度に、
新しいクラスになじめるか不安で不安で憂鬱になっていましたし、
自分の予想通り、友達がなかなかできず苦労した覚えがあります。

★★注意★★

以下、私の暗い過去の話になります。
「マイナスな出来事を読んで感情移入したくない!」という方は、
ジンジャークッキーの画像部分まで読み飛ばしてくださいませ。
マイナスエネルギーを振りまくことは本意ではありませんので、
感受性の強い方は自衛をお願いいたします。
 

 
休み時間に
「せんせー!一緒に〇〇しようよ!」
などと先生と仲良くなる子も居ましたが、
私は先生と仲良くなるなんて考えられませんでした。
大げさな表現だとは思いますが、先生は「先生」という、
自分とは別種の絶対的に正しい神のような存在のように感じていました。
そんな絶対的な正義を持った相手と親しく話すなんて、考えてもみませんでした。

 
先生、先輩、上級生、上司、○○会社社長など。
何らかの肩書のある、しかも自分より上の立場の人達は、
その肩書を背負った生き物のように思えて、自分とは違う、
分かり合えない生き物だと思っていた節があります。
何か失敗してそんな人たちに怒られたりすると尻込みしてしまい、
ますます何にもしゃべれなくなりました。

 
大学時代は友達が一人もできませんでした。
周りで面倒を見てくれる先輩方にも、心を開くことができませんでした。
先輩が卒業する時に
「こんなに長く一緒に居たけれど、今 特別言うべき言葉も無く…
ま、こんな関係だったという事ですかね」
というような内容の手紙をもらい、
人間関係が築けなかった自分にがっかりしました。
 
友達の友達、というような新しい出会いがあっても、
一歩下がって見てしまって仲良くなれませんでした。
 

就職しても職場になじめません。
最初に就職した職場で唯一親しげに話しかけて来てくれた人は、
後にネズミ講に誘ってきて「これが目当てだったのか」と、
がっかりさせられました。
 
服屋さんに勤めていた時には、お客様が店に入ってくると
「うわっ、どうしよう、何か話しかけないといけないのかな。
早く帰ってくれないかな」
と思いました。
お客さんに帰ってほしいと思っている店員さんなんて嫌ですよね。
 
職場の飲み会などの大勢がいる場では、人がいっぱいいすぎて
誰と話していいのかわからなくなって固まってしまいます。
お話上手な人の話に相槌を打つので精いっぱい。
帰宅後は何にもしてないのにすっかり気疲れしてしまって、
二度と飲み会には行きたくないと思うばかり。
 
子供ができてからは、保育所のお迎えに行った時に、
他のお母さん方の群れの中に入らなくてはならないのが
苦痛で仕方がありませんでした。
楽しいはずの学校のイベント、運動会や参観日なども他の父兄の方々と
コミュニケーションしなくてはいけない場面が多々あるかと思うと、
心底嫌で嫌で仕方が無く、そんなイベントには行かずに
家で好きなことをして過ごしたいと思いました。
 
大人になるごとに多少の処世術は身に着けていきましたので、
表面上何ともないように話すことはできなくもありません。
でも内心は、他人への恐れ、関わりたくないという気持ちが
消えることはありませんでした。
  

仲良くなりたい

そんなにも他人と関わりたくないと思っていたけれども、
その反面、実は強烈に人と仲良くなりたいとも思っていました。
仲良さそうに話している人たちを見ると、自分もあの輪の中に入れたら
どんなに良いかと思う気持ちを消すことができませんでした。
 
私の周りの40歳を越えた人たちは、これまでの人生経験から
ある程度自分の特性を理解していて、一人でいることを楽しんでいます。
 
人と関わるのが嫌いなKさんは一人でいることを無上に愛していて、
そもそも人に関わりたいとも思っていません。
 
Yさんも同様に大勢でいるのが嫌いで、一人でやりたいことを
自由にやれる環境を楽しんでいます。
 
Hさんは友人と会うよりも仕事優先したいと考えて、
ここ数年友人と会って話すという事をしていません。
 
そしてみんなそれで良いと満足しています。
 

だけどあきらめがつかない

 

 
なのに私は、人が嫌いなくせに人と仲良くしたいという矛盾を抱えたまま、
苦しみながら生きていました。
一人が好きなんだから一人を楽しめばいいのに
(そして一人を十分楽しんでもいたのに)
40歳が来ようとしている今もまだ、あきらめがつかずに
人と仲良くなりたいだなんて往生際が悪いな、と。
 
 

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